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AとBについて |
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※歴史部分の主な情報源はWikipediaです※
一次資料(本人が書いたもの)、同時代資料(同じ時に生きていた人が書いたもの)は『御堂関白記』しか読んでません。
色々なブログを見ていて、この2人についての記述について思う所があったので、もの申したくなりました。
但し、私は素人です。専門家ではありません。
これは私個人の感想でしかありません。
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いるかどうか分かりませんがAとかDとか全く知らないし平安時代にはミリ興味ないけど私のブログだから読んでやろうという方は1.を見たら書き間違え?って考えると思うんで下に説明書いときました。ここからに下の説明へのリンク貼ってあります。 |
AやB、Cについてのブログで「こうだった」「こう思っていた」という断定調の記述が散見されますが、Cは『御堂関白記』という日記を残しているものの、AとBに関する資料(この2人が生きていた頃に書かれたもの)はほとんどが他人の日記。
一応Aは日記の断片?とDは歌がそれなりに残ってるけど、それ以外で当人が自分の気持ちを書いたものはない。
どのブログも大体通説とされてるものを書いてますがフィクションです。
根拠は
本人が言った/書いたものではない。他人が想像して書いたものだから
この一言に尽きます。
後世の人間が、他人の想像を根拠に断定調で語ってる。
想像でものを言ってる以上、断言はすべきではないと思う。
どこかに「自分はこうだったのではないかと考えている」とか「○○に書いてあった/□□から聞いた話だ」という断り書きが入ってるならともかく、そうではないことを断定調で史実や定説みたいに語るのはどうかと思う。
異論を唱えたいのはよく見かける以下の3点について
1.DはU(Eの息子)を東宮にしたかったのにCのゴリ押しでV(Dの息子)が東宮になってしまったのが不満だった。
2.AがC、D親子と険悪だった。
3.Aの辞世の句はEのことを詠んだもの。
要点は以下の通り。詳細はその後に書いてあります。
・1,2はともに一次資料なし。
・3の根拠はOの日記『権記』で、これは同時代資料だけどAは誰の事かを言い残しておらず、Oがそう思ったと書いただけ。しかも実はEの名前は出してない。
●以下で詳述(流れを遮りそうな余談は※に数字を付けて一番下に書いておきました。クリックで飛べるようにしてあります)
1.の出典は作者不詳でしかも物語(つまり創作)のF。
一応Fの作者はGではないかと言われていて、この人はDに仕えていた人だから物語の中のDの気持ちは本当だろう、と思われてるだけ。
実際は作者が誰か分からない。
D自身はどこにもその時の気持ちを書いてないから現時点では完全なフィクションとしか言えない(少なくともDの感情については)。
そもそもFは女性向けに書かれた歴史物語、いわゆる歴史創作なので誰がどう思ったか等は読み手に受けるように書いてるはずで、歴史的事件を扱っていても感情のような本人にしか分からない部分は想像で書いてる。
当人の日記などが残っていない以上、作者の想像に過ぎない。
2.の出典は『古事談』『愚管抄』
『古事談』は鎌倉時代に書かれたもの(一番最後に亡くなったDの死後140年近く経ってる)。
『愚管抄』は更にその数年後に書かれたもの。
この不仲説はどちらも内容はほぼ同じらしいですが私が読んだのは『古事談』の方。
A崩御後、CとDが遺品の整理をしていたところ、Aが「自分の后とその一族が好き勝手に政治をして国が乱れている」という内容の書き付けを残していたのを見て、Cが自分の事を批難したものだと考え、腹を立ててその書き付けを破り捨てた。
書き付けの内容は以下の通り
『愚管抄』(『古事談』の注釈に『愚管抄』の内容として載ってたもの)
>三光欲明、覆重雲大精暗(原文)
>三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し(Wikipediaに載ってる訳文)
『古事談』
>叢蘭茂らんと欲すれば秋風吹き破る、王事章らかならんと欲すれば讒臣国を乱る(原文)
意味は前述の通り(后とその一族が好き勝手な事をして国を乱してる)。
仮に書き付けが事実だとしても処分されたから『古事談』『愚管抄』の時点では証拠は残ってなかった。
しかも、それまで(140年以上経過するまで)の間にこの類の事が書かれた資料がない。
あったとしてもA、C、Dまたは書き付けを実際に見た人が書いたものでない。
何より、どちらにも誰の名前も書いてない。
つまり、ホントにこの書き付けがあったとしてそこで批難していたのがCだとは限らない。
Cは身に覚えがあったから自分の事だと考えたのだろうと推測してるに過ぎないが、Cが後世に批難されるような事を始めるのはどちらかと言えばAの次のHの頃から。
後世の人はCの生涯を知っていて批判的な目で見ていたから『古事談』『愚管抄』の書き付けの話も鵜呑みにしてるけど、実はAの頃に好き勝手してたのはCの父Iと兄JとJの子供達(主にKとE)。
以下の話に出てくる登場人物とその家系図(MはAの父方の従兄)
祖父 |
親 |
当事者 |
Aの子供 |
J、N、CとK~Eの妹が兄妹
K~Eの妹達とAとDは従兄弟
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I |
J |
K |
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Kの弟 |
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E |
脩子内親王
U
媄子内親王 |
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J四女 |
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N |
A |
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C |
D |
V
敦成親王 |
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※前述のように歴史の流れはWikipediaを元にしてます※
※なので以下、語尾に「らしい」のような推測の言葉が書いてない場合でも断定出来る根拠の補足でもしてない限り「らしい・だろう・と思う」が付いてる(つまり断言は出来ない)と思って下さい※
断言出来ないのは主に一次資料、同時代資料を私自身が見てない(残ってない場合も含めて)のと私はこの分野を研究しているわけではないから。
まずIはAを即位させるためにLをそそのかして出家させて退位に追い込み7歳のAを即位させた(寛和の変)。
この事件はIとJによるものでCは関わってなかったらしい。
7歳で政(まつりごと)は出来ないから当然のようにIが摂政として政治を行った。
これがいわゆる「摂関政治」
(↑この2行とLの退位は事実と考えていいはず。寛和の変(Lの退位にまつわる話)は多少脚色されてる可能性あり)
Iの死後、後を継いだJはAが11歳の時に、13歳の自分の娘Eを入内させた(これは入内を記録した正式な記録があるはずだから史実と考えていいはず)。
Iの死後まだ数ヶ月しか経ってなくてJは喪中だったし、Aは11歳、Eは13歳でどうせ子作り出来るような年でもなかったんだから喪が明けるまでの数ヶ月くらい待てば良かった。
それを待たずに入内させたので貴族達から顰蹙(ひんしゅく)を買った。
そして当時「中宮は3人」(太皇太后、皇太后、皇后)という決まりがあったらしい。
普通は皇后=現役のSの后だけど若くして譲位してしまったりすると前Sやそれ以前のSの后が若いまま皇太后や太皇太后になってしまい、それが続くと既に3人いるから現役のSの后が中宮になれないという状態になった。
要はLをたった2年で退位させてしまったので既に中宮が三人いた。
一夫多妻制だから入内は問題ないけど女御(沢山いる妃)から中宮(正妻)になるには既にいる3人のうちの1人の薨去(「こうきょ」亡くなる事)を待つしかない。
けどMをたった2年で(以下略)なので誰かが薨去するのはよほどの事がない限りは大分先になりそうだったのだろう。
そこでJは強引に理由をつけてEを中宮にしてしまい、中宮が4人という状況になった。
これでまた非難囂々(ひなんごうごう)。
喪中の入内すら顰蹙買ってたのにその上、無理矢理Eを4人目の中宮にしてしまった。
更にJはAがEを寵愛するようになるとゴリ押しでまだ若かった長男(Eの兄)のKを内大臣にした。
これでまたまた貴族達から猛反発。
その上、Kは内大臣になった途端、政(まつりごと)でAの許可も得ずに勝手な事をしてAも怒った。
この頃、一応貴族達の意見を聞いていたが裁可を下していたのはAだったようなので許可もなく勝手な事をしたKの意見を聞かなくなったらしい。※1
するとKはAがEを寵愛してるのを良い事にEからAに頼んでもらうようになった。
AはEに頼まれると断れなかったらしく仕方なく承諾していた。
それでAの母でありCの姉だったNの怒りも買った。
これでJとその子供達に味方がいなくなったらしい。
Jが病気になってKを自分の代わりに関白にして欲しいとAに頼んだのに承諾しなかったのは恐らくAはKにこれ以上権力を持たせたくなかったからではないだろうか。
CとKのどちらが関白になるかで揉めたときNがCを推薦したのも、弟のCが可愛かったからと言うよりは「この兄妹(KとE)だけはない」と思ったからではないだろうか。
そして、この揉め事の最中にKは自分の恋人の家の前にMの牛車が止まっているのを見て、Mが自分の恋人のところに通ってると勘違いした(その家には娘が4人いてMとKが通っていた相手は違った)。
Mに腹を立てたKは弟と一緒に牛車を襲撃した(Mは無事だった)。
この事件の直後、Nに対する呪詛なども発覚しKとその弟は左遷が決定する。
この件に関して実は処罰を率先して下したのはAだったらしい。
いつもなら決定前に貴族の意見を聞くAがこのときだけは意見を聞かずに指示したらしい。
何しろKの父Iは自分を即位させて政治の実権を握る為のMの退位に噛んでた(自分もMもIが権力を握る為に利用された)。
その上、ただでさえEを利用して政治に口出ししてきて腹に据えかねてたところでMを前Sと知った上での襲撃。
しかも自分の母に対する呪詛まで発覚。
これでAの堪忍袋の緒が切れたのではないかと思われる。
しかもKは素直に左遷先に行かず、出産のため内裏から退出していたEの邸に隠れていたがバレて(貴族達から嫌われていたので誰かにチクられたらしい)結局更に遠いところへ左遷させられる事になった。
このときAに兄を許して欲しいと頼んだが断られる。
その後、Eは出家してしまう。
AがKを許さなかった事とEの出家との因果関係についての一次資料があるかは不明(『T』は一応一次資料に当たるはず)だが、多分、Eの頼みを聞かなかったからだろうと言うのが通説だった気がする。
この部分はA、E、双方の読みが甘かったのだろう。
AはKさえいなくなればEと2人で平和に過ごせるようになると思ってた。
Eはどんな無理難題だろうとAは絶対聞いてくれると考えてた。
本来なら出家した時点で后としての資格がなくなるのだがAがどうしてもEに戻ってきて欲しいと頼んで戻ってきてもらったらしい。
しかし貴族達の手前、出家した女性を後宮には入れることまでは出来なかったらしい。
決定権はAが持っていたにしても貴族の意見を尊重していたようなので無理には押し切れなかったのだろう。
Eはただでさえ父や兄が散々やらかして反発喰らってた上に、E自身も色々兄に加担して良く思われておらず更に出家までしてしまっていたから貴族達には総スカンを喰らっていたと思われる。
Eは「いまめかし」と言われていたらしいが、この「いまめかし」は必ずしも肯定的な意味とは限らず否定的な意味でも使われていたらしい。
通説は、当時は賢い女性を嫌う風潮だったのにEとRは頭の良さを隠さず堂々としていたからと解釈されているが、実際はやりたい放題やっていたJ、K、E親子に対する批判だったのではないのだろうか。
というのも、頭がいいのを嫌うと言ってもEに仕えていた女官で文化人として有名なのはRくらい。
文化人として名高い女官が多かったのはむしろDの方だけどDがそう言う批判をされたという話はないようだから、頭がいいから嫌われていたのではないのではないかと思う。※2
特にQは「日本記の局」なんてあだ名がつくくらいで同じ女房達には嫉妬されてたようだけど貴族達は別に悪くいってた様子はない。
それにQが同僚に妬まれたのも頭の良さよりDと仲が良かったかららしい。
つまり、Eはそれだけヘイトを集めていた為、戻ってはきたものの内裏の中だけど大内裏(後宮)の外という場所に住む事になり、Aは人目を忍んで通っていたらしい。
3年後、11歳のDが入内。
つまり、これ以前のごたごたの時期、Dはまだ内裏にはいなかったので完全に無関係。
前述のL出家の件は後世の創作部分がかなりあるといわれているが、Dが入内する時にMが祝いの歌を贈ったらしいので、MはIやJに思う事があったと思われる。
本来なら「中宮は3人」の原則があるし何よりEが中宮だった(L退位から大分経っていたので誰かが薨去して3人の状態に戻っていたらしい)のでDは中宮になれないところだけど
「Eの時だって既に中宮3人いたけどEを中宮にした」
という他ならぬEの父Jが中宮4人の前例を作ってしまっていたのと、Eを含めた3人が全員出家してしまっていて中宮がやらないといけない行事が行えないから中宮は必要ということで入内後すぐにDが中宮になった(本来「中宮」=「皇后」のところを分けてEを皇后に、Dを中宮にした)。
日本史や古文の授業でCが娘を中宮にしたくてゴリ押ししたと教わるけど、実はEの時も本来まだ中宮になれないはずのところをゴリ押ししてて結果的にそれが前例とされたわけだけど、それを授業で教える教師はほぼいない。
そもそも「中宮は3人まで」を高校で教わる事自体珍しいけど(私も教わった覚えない)。
しかもEの時と違ってDの時は行事が出来る中宮がいなくて困ってたらしい。※3
11歳だから子作りは無理だったものの、中宮不在で中宮の行事が出来ない期間が長かったためかDが入内するとすぐにAはDの元へ行くようになった。
この部分(Dの入内直後にAがDの所へ行った)は『御堂関白記』に書かれているのですぐに会いに行ったのは事実と考えていい。
その後も『御堂関白記』には「内裏へ参内したらAはDのところに行っていた」みたいな記述やDが行事を行っていたという記述が度々見られる。
Cが参内するのは昼間だから寝所に通ってたわけではないけど。
EとDは10歳違いで、しかもDが入内した2年後にEは出産で死亡。
出産する時は内裏から退出して里帰りするからDの入内後にEが内裏にいた期間はおそらく1年強(D入内時もEは出産のため入れ違いで退出していた)。
なのでこの2人はよくライバルみたいに言われてるけど、Eが薨去したときでもDはまだ13歳だから少なくとも恋敵になるような年ではなかった。
Eが亡くなるとAはJ四女(Eの妹、E、Dと違い名前は残ってない)のところに通うようになった。
J四女はAの子供を身ごもったものの出産前に亡くなってしまった(なので子供も生まれなかった)。
これがEの死の2年後。Dが15歳の時。
なのでJ四女のところに通ってたのは1年程度と考えていいはず。
Eが生きてた頃からJ四女のところにも通ってたのでなければ、だけど。
Dに1人目の子供が出来たのは入内から9年後だけど、実はEに1人目が出来たのも入内してから9年後。
Jが元気だった頃、JはE以外の女性の入内を認めず后はE1人だけだったらしい。
他の女性がいないにも関わらずEに子供が出来るまでに9年かかってる。
Eの入内当初、Aは11歳(Eも13歳)。
これは数え年だから満年齢なら10歳なので最初の数年は子供が出来ないのは当然として、Jが亡くなった後は女御が3人入内してた(J四女は女御ではない)。
J四女の死後、AはDにEの息子のUと長女の脩子内親王を育てさせた(実際に面倒を見たのはおつきの女官達だろうけど)。
DがUを可愛がっていたのは事実らしく(『Q日記』に書いてあるっぽい)、そこでUを東宮にしなかったのが不満だったという話が出てきたと思われる。
可愛がっていたのが周知の事実ならQの同僚であり、Fの作者と目されるGも当然知っていたはずだから。
あとOがAにU(Eの子)とV(Dの子)どちらを東宮にするか相談されたとき、OはCにVを推薦してくれと頼まれていたからVを推薦したというようなことがOの日記『権記』に書かれていた事も理由の1つらしい。
しかしDがその話(Vが東宮に決まった事)を聞いたときOはその場にいなかったと思うからDの様子など知らないはず。
『権記』に書いてあるのはCに頼まれてVを推薦したという事だけのはず。
OはただAに頼まれたからと言うだけではなく、後ろ盾のいないUを本気で心配していたからVを推薦したのではないかという説もあるらしい。
実際、Lがたった2年で退位に追い込まれたのも後ろ盾がいなかったのも一因と言われている。
自分の前のS、Mの事を考えればUを東宮にしたところで同じ目に遭うかもしれないと思うのも無理はない。
しかし私は後ろ盾の話だけではなく、Eやその家族は身体が弱かったのではないかという気もしてる。
Eも20代で死亡、Eの妹も出産を待たずに死亡、そしてUも20歳で薨去、次女媄子内親王も7歳と言う若さで亡くなってる(脩子内親王は50代で亡くなった)。
父親のA自身32歳の若さで亡くなってるし、相談を受けたのも病で寝込んでる時だったか回復直後だったはず。
Aの息子は内裏で育ってるから具合が悪くて寝込んでたらすぐに貴族達に知られただろうし、寝込んでる事が頻繁にあったなら身体の心配をしても無理はない。
東宮が決まった頃、Eの息子は既に10歳くらいだったので身体が丈夫かどうかは分かっていたはず。
逆にDは曾孫が即位した後まで長生きしたくらい身体が丈夫だったらしいし、Cも病気だといいつつ62歳まで生きてる。
Aが崩御したときDはまだ23歳。
しかもCの子供の中で1番年上だから息子達はそれより若かかった上に、CはJみたいなゴリ押しで息子を出世させてなかったからCの息子がAの時代に好き勝手出来たとは思えない。
それにAは貴族達に意見を聞いてはいるものの基本的には自分で判断を下してたようで『御堂関白記』を見ても「(Aに)こうしたらどうかと奏上したけど却下された」というような記述がよくある。
貴族達に一応意見は聞いてるけど決定してたのはAらしい。
少なくともCの時は。
Jが健在だった頃のJがどうだったのかは知らないけど。
『御堂関白記』で
Aに
「女御の一人の父親がもう一人の女御の方が官位が高いと文句を言ってきたがどうしたらいいと思う?」
と相談されて
「低い方を上げてやれば良いと思いますけどSのお考えに従います」
的な返事をしたら上の方の女御の官位を1つ上げた上で下の方の女御も同じ官位にしたと聞いて
「しまったーーー! 下の女御の官位を上の女御と同じにすればいいって答えれば良かったーーー!」
って滅茶苦茶後悔してる記述があるくらい。
このときはまだDにはまだ子供が出来てなかったからCとしては他の女御を優遇するような事はして欲しくなかったはず(実際悔しがってるし)。
こんな些細な事すら思い通りにはなってないのだから書き付けが存在したとしてもそれがCだったとは考えにくい。
何より
>三光明
この光明っていいうのがDを光明皇后にをなぞらえてるんだとしたら「三」という数字がおかしい。
光明皇后の兄は四人。
AがPを読んで「この話の作者は歴史書をよく読んでいるようだ」と言った為にQは「日本記の局」というあだ名をつけられてしまったと『Q日記』の中で嘆いてるらしいけど
作者(Q)が歴史に詳しいと分かる=A自身も詳しい
って事だから光明皇后の兄が4人だった事を知らないはずがない。
Eがいなくなって何年も経って、Dを寵愛するようになってから「そういえばCはD経由で無理を言ってきた事ないな」って気付いて冷静にE達の事を思い返してみてJ一族の事を書いた可能性ならなくもない。
ただその場合、CはA崩御の時点では思い当たるような事をしていないのだから自分を批難したとは考えないはずだし、自分の事だと思わなければ処分もしないだろう。
・Dって寵愛されたの?って言う点に関しては
『御堂関白記』に
Dが20歳で1人目の子供を出産したとき、Cが無事生まれた事をAに報告に行くとDが内裏に戻ってくるのはいつかと訊ねた(当時は内裏での出産は出来なかったので出産の時は里帰りしてた)。
Cが2ヶ月後(出産が9月、内裏に戻るのが11月)と答えると、待ちきれないから会いに行くと言って実際Cの邸まで会いに行った。
ただ当時は外出も占いで出掛けて良い日かどうか決めていた。
占い師に10月に出掛けられる日だと言って3つの日付を言われたとき、Aは一番早い日にちを選んだ。
しかし、その日は都合がつかなかったのか2番目と3番目の日は2日続いていたから泊まりがけで行かれるからか、結局2番目の日にやってきてCの邸に泊まって翌日帰った。
同じく『御堂関白記』にDが17歳くらいの頃、内裏で火事が起きた話が出てくる。
夜中に火事の知らせを受けたCが内裏に駆けつけてAはどこかと聞いたらDの寝所だ言うので行ってみたら2人が一緒にいたという話があるからDがそれなりの年になってからは夜はDの所に通っていたと思って良さそう。
『御堂関白記』を読む限りCは「自分(C)が嬉しかった、残念だった」という事は書いても、他の人間が「こう考えたんじゃないか」と憶測を書く事は避けてる。
A崩御後、何年も経ってから記述でHの退位の話をしたとき(だったと思う)Dが不愉快そうだったと言うような事は書いてるけど、その件に関しても前回同じ事(Hの退位)を言ったときも不愉快そうにしていたようだけど「H退位の事を話した。(Dの様子については)書かない方がいいだろう」と記してるだけ。
なので不愉快そうだったのではないかというのも私の憶測。
Cは書いてないし、Dもこのときの自分の考えを書き残してないから。
ただ2度目も同じ様子だったようで「(どうやらこの件に関しては賛成じゃないらしく)不愉快そうだった」と書いてたり、Aの生前Kの振る舞いについて不満を漏らしたと思われるときも「(Kが宴会の席にいるのを見た)AがCを側に呼んだ」というところで突然その日の記述が終わる。
これは前述のAが出産直後のDにわざわざCの邸に会いに来た時の話で、お祝いの宴が開かれたけど、このときKは招待されてなかったのにCの邸に押しかけてきた。
それでKを見たAがCを呼んだ。
この日の記述はここで終わる。
その後も宴は続いたらしい(他の人の日記では打ち切られたとは書いてないっぽい)ので恐らくAが言ったKの悪口を書きたくなかったのではないかと思われる。
このときのKは既に没落していたしEもいなくなって寵愛されていたのはDだったからCやNはKに対して特に敵意は持ってなかったらしい。
だからCやNは「そろそろ(Kを)許してあげたら?」と何度かAに頼んであげていたらしい(左遷は許されて京に戻ってたけど官位や官職は戻されてなかったらしい)。
特にNは病気になったとき、「(自分が神仏の加護を貰えるように)Kに恩赦を与えてくれ」と頼んだのにAは突っぱねたとか。
平癒祈願を断ってるくらいだから母親の言いなりだったとは考えづらいし、仮に言いなりにも関わらず平癒祈願を断ったとしてもそれはそれで本来なら絶対断らない相手の頼みすら断るくらい嫌だったということになる。
だから恐らくだけどAはKが嫌いだったのではないか。
Eが生きてたときはEの機嫌を損ねるのが嫌で仕方なく言う事を聞いてただけだからEが亡くなり寵愛がDに移った今となってはKに我慢する必要はないから冷遇していたと思われる。
NはあくまでもKに実権を握らせたくなかっただけで、それ以上に含むところはなかったのだと思われる。
Eの事も寵愛を利用して政治に関与してるのが不愉快だっただけなのかEの産んだ娘の内、媄子内親王の方はJ四女の死後、Nが引き取って育てた。
3.辞世の句は誰の事を詠んだのか
ほとんどのブログは『権記』を根拠にEと言っている。
確かに『権記』はAの側近が書いた日記。
しかしOはA本人ではない。
Aは崩御の直前、僅かに意識を取り戻したときに詠んだ為、『御堂関白記』と『権記』では最後の部分が少し違う。
これは今際の際に詠んだ為、言葉が明瞭ではなかったのではっきり聞き取れなかったからではないかと言われている。
最期の最期に僅かに意識を取り戻したときに詠み、すぐに崩御してしまったから当然誰の事かは言い残してない。
『権記』のEの事だというのはOの推測だけど、実はOも名前は書いてない。
OはEを皇后、Dを中宮と書き分ける事が多かった(例外あり)ので、なにがなんでもAの最愛の人はEと思いたい人のバイアスがかかってる(正解の可能性もあるから有り得ないとは言わない)。
QがRに批判的な事を書いてるけどQとRは同時期に内裏にいたわけではないらしい(※4)し、好きなものは大っぴらに褒め称えるRと違い、Qは内向的で奥ゆかしさを重んじる人だったようだから娘のように思って愛情を注いでいても大仰にDを讃えたりはしなかった。
持ち上げ方が地味なのでDの印象が薄い。
だからCの悪い印象と相まって
「AはEだけを溺愛していた。DはCに押し付けられただけ」
みたいに思われてるような気がする。
実際、日本史や古文の教師でも、EとD、どちらも最初の子供が生まれるまでに9年かかってる事や2人の年の差が10歳もあって、同時に内裏にいたのは2年弱という事を知ってる人は少ない。
しかも、D入内時はEは大内裏の外に住んでたので大内裏内にいたDとは会った事があったかどうかも怪しい。
『Q日記』でQがRを批判してる事もあって二人が同時期に内裏にいたと思ってる古文の教師もいるくらいだから、例え日本史や古文の教師の話す定説でも話半分に聞いておいた方がいい。
あと、しつこく一次資料と書いておいてこんなことを書くのはアレだけど、当時は日記でも人に読まれて困るような気持ちは書かなかったらしい。
Cが自分の感情を素直に書いてるのも人に見られても差し障りがない事だけ。
『Q日記』のRに対する批判にしても人に見られる可能性があったから、自分はRひいてはRが仕えていたEを良く思ってないアピールではないかという説がある。
これは『Q日記』にCが書き上げたばかりの原稿を勝手に持っていってしまったと書いてるように当時は日記であれ文であれ他人に見られる可能性があった(鍵がなかったから)。
AやDのような立場の人は考えを知られると政治に影響が出る可能性があったから軽々しく本心を知られるわけにはいかなかった。
そのためAの日記や、仮にDが日記をつけていたとしても自分の気持ちを書くのは人に知られても困らない事(花が綺麗だったとか、何かが嬉しかったなど)で、東宮の決定に対する気持ちのような政治に関わるような事はまず書いたりしなかったはず。
中宮が東宮に不満を持ってたなんて人に知られたら後々火種になりかねない。
この東宮には中宮も不満を持ってたから別人を立てようという口実を与える事になる。
Aが元気ならまだしも決まったのは周囲が薄々崩御が近いと感じていた頃。
火の粉を払える人がいなくなるかもしれない時に火種を巻いても、それこそ可愛がってるUや実の息子達がトラブルに巻き込まれるだけで良い事など何もない。
だから実際に不満を持っていたとしてもそんな事を知られるわけにはいかなかったんだから誰かに言ったはずがない。
言ったとすればそれは絶対他人に漏らしたり日記などに書いて人に知られるような危険を冒さない相手だけだろうし、当然そう言う人は書き残したりしないから他人が知る術はない。
このように当人の日記という一次資料ですら感情に関してはあまりアテにならないのだから他人の書いたものは一次資料だろうと無条件に信じるのはどうかと思う。
ましてやFのような物語(創作)や死後100年以上経ってから突然出てきた話を史実のように書くのは問題がある。
一次資料にすら書いてない感情など完全に他人の想像でしかない。
誰がどう思っていたかに関して断定調で書く場合は、あくまで自分の主張、もしくは誰かがそう書いていたものだとはっきり書くべきだし、書かないなら断言すべきではない。
ある程度調べてみたけど結論としてはAやDを始めとした人達が何を思っていたか、幸せだったかどうかの結論は
「本人にしか分からない」
だった。 定説と言われてるものには少なくとも証拠はなかった。
だからRみたいにEを押したい人は押せばいいし、QやDが幸せだったと思いたい人はそう思っていて良いと思う。
本人の頭の中を覗かない限り知りようがない事だから正解が分かる日は来ないだろう。
感情だけはどれだけ研究したところで知りようがないし、証明出来ない以上どう考えようとフィクションでしかない。
特に感情に関しては研究者の個人的な経験や性格によるバイアスがかかる。
『権記』も一次資料だけどAの辞世の句については「Oの考え」であってAも同じ考えかどうかは分からない。
しかも名前は出してないから本当にEのことかも分からない。
仮にOはEの意味で書いたのだとしてもAがEのこと思った歌とは限らない。
女御3人の内の誰かの可能性もなくはない(かなり低いにしても)し、J四女ということもありうる。
ただ子供が生まれた時、2ヶ月が待てなくてわざわざ会いに行ったくらいだし死の床に付き添って看取ったのもD。
だからAの崩御の時、側にいて辞世の句を書き留めたのもD。
Dはおそらく自分の事だと思ったのではないかと思うが当人がその時の自分の気持ちを書いたものは無いから分からない。
Dがどう感じたかを知ってるのはDだけ。
後世の人間が主張してるのはあくまで自分の想像か誰かから聞くか読んだ話。
とにかく想像上の事を史実みたいに言われてるのがちょっと我慢出来なかった。
Fは創作だし『古事談』も『愚管抄』も100年以上経ってから作られた説話集なのにそれを元にした事をさも史実や定説みたいに言ってるのが不愉快だった。
とっくの昔に亡くなってしまっている上に日記など自分の気持ちを書いたものがほとんど残ってないのに「らしい」「だろう」ではなく断定調で書いてるのが腹に据えかねたので書いてしまいました。
とはいえ『御堂関白記』以外の一次資料は読んでないし、専門家でもないので突っ込まれても反論出来ないんで検索避け駆使してます。
※1
Jは関白になったのだが関白は政治的発言権がなかったらしい。そのためか、Cは最後まで関白にはならなかった。
Jは関白になって発言権がなくなった為、Aが貴族達の意見を聞いた上で裁可していたらしい。
戻る
※2
EやRは漢文、Qを始めとしたDの女官達は主に和歌だったという違いはある。
和歌は男女とも嗜むものだったが漢文は男のものという認識があったらしい。
なので「いまめかし」が定説通り女のくせにと言う意味だったのかもしれない。
戻る
※3
DはAの崩御後、数年経ってから出家した。
これは恐らくだけどDが出家してしまうとまた中宮が3人とも出家してて行事が出来なくなる可能性があったからかもしれない。
子供が1歳と3歳だったからではないかとも言われているが出家と言ってもお寺に入るわけではなく実家に住むだけだしAは事情があったとはいえNの家(内裏ではない)で生まれ育ってるから出家しても子供を育てるのに支障はなかったのではないかと思う。
戻る
※4
これはホントに関係のない余談だし上の話とは全く関係ないものです。
古文の教師もアテにならないと言っておいてあれなんですが予備校の古文の授業で先生が言っていた話。
E亡き後、Rのところにお客さんが来た時、お客さんの座る場所にさりげなく『T』を置いておいて客が気付いたら「あら、そんなところにあったの気付かなかったわ」的な事を言ったらしいんだけど、それを見せたのはCと繋がりのある人なんで『T』を見せてCにRを紹介して欲しかったのではないかと言う事だった。
RがDに仕えていたという記録はないものの、そもそも女官の仕えていた時期はきちんとした記録がないらしく「(日記などの文献に出てくる)○○はこの人ではないか、だとしたらこの時期この人は内裏にいた事になる」みたいな感じで、色々な文献を突き合わせて出仕(しゅっし)していた時期や期間を割り出してるらしいので、RがDに仕えていた記録がないからといって仕えてなかった事にはならない。
Qの生没年なども正確には分からないけど「○○の手紙に出てくる□□はQのことではないか。もしQなのだとしたらこの時期はまだ生きていた事になる」みたいな感じでおおよその生没年を割り出してるので新しい発見があったりすると、従来とは少し年数がズレたりするらしい。
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E薨去(亡くなった)後(正確にはEの妹であるJ四女が亡くなった後)、AはDにEが産んだ子供の内、U(長男)と長女を育てるように指示した(ここまでは史実通りらしい)。
FではDはU(Eの子)のことをとても可愛がっていて、AがUを東宮にしたいと思っているのを知っていた事もあり、Aの願い通りUを東宮にして欲しかったのにCが強引にV(Dの子)を東宮にしたのでUを東宮にしてくれなかった父を恨んだ、と書かれてるらしい。
Fは別々の本ではなく同じ本だけど「華」と書かれる場合と「花」と書かれる場合があるので併記してあるだけです。
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反論、ご意見はこっちの方にお願いします。
https://twitter.com/takato_419
本題とは関係なかったので省きましたが調べる中で結構面白い(と私は思った)話がいくつかあったんで機会があったら書きます。
このページも実は落ち込んじゃって現実逃避で書いたものなので戦争が続くようならその機会は遠くないかもしれませんが…。
因みにこんなに熱く語った理由は2度もネット検索で振り回された挙げ句、どれも参考にならないと分かって時間を無駄にさせられた事に腹が立ったから。
1度目は、国語の勉強をし直そうと文法その他諸々を調べた時(早く停戦してくれないとこれも書く事になるかも…。戦争嫌い…)。
2度目がこのAやDの話。
実はDには個人的な思い入れがあったので高校時代、Dがないがしろにされていた、Aが大事にしていたのはE1人みたいな定説を授業で聞かされて、これはDのことを深く調べたら大ダメージを受けると思って長い間避けてきた。
しかし最近、もしかしてDも少しくらいは愛されていた可能性があるかもしれないと思ってネットで検索したら出てきたブログやWikipediaがどれも高校時代に聞いた話ばかりでやはり大ダメージを受けたものの、最近少し歴史学を教わっていたので、一次資料とそれ以外の違いなどについても多少分かるようになってきた。
それで調べてみたらソースになってるFは創作(物語)、『古事談』『愚管抄』は100年以上も後に書かれた説話集。
作者不詳の物語を定説として聞かされてきたと知った時の怒りはもう…。
なまじ自分が創作してるから尚更頭に来た。
そこ同時代の人間ですら分からなくて創作する部分じゃん!って腹が立った。
『権記』にしても名前は出てない。
研究者がOはEだと考えたようだと書いたものを引用していた。
こういう風に考えればEだと解釈出来るからOはそう考えたのだろうって。
ただあくまでも解釈であって証明は出来ないよねっていう。
どうしてもRやEに感情移入してる人がEだった事にしたくて強引な解釈をしたようにしか見えないんだよ。
そう言う解釈もあるというのはいいけど、仮にAがE以外の人を想って詠んだ歌を強引な解釈でEだって主張したらそれはAの想いに対する冒涜じゃないのか?
まぁ誰の名前も出してないからどう解釈されても仕方ないんだけど…。
どのブログも書いてるのはR贔屓だからEを持ち上げてるか平安文学好きでFが史実と思ってる人の願望みたいで…。
それ自体はいいけど「あの人はこう考えていたに違いない」っていうのはフィクションなんだよ…。
その文章を書いたのが本人でない限り。
悪いけど学者が書いた事だろうと当人の気持ちに関する部分はどれだけ深く研究しようと「このときはこういう気持ちだった」と言った時点でそれは創作なんだよ、証明出来ないから。
素人に限って一次資料に拘るって意見を見かけた。
一次資料が必ずしもアテにならないのは事実。
それは自分に置き換えてみれば分かるけど、今どこかで事件が起きていてそれを知らないまま一生を終えたら事件を自分が日記などに書く事はない(知らないんだから書きようがない)。
自分が一次資料として書けるのは自分が知ってる事だけ。
だけど
だからこそ、感情なんて他人には知りようがないものは一次資料でさえアテにならないのに赤の他人に分かるわけがない。
どれだけ研究したところで知る術はない。
自分に今現在好きな人がいるのに、誰かが勝手に自分の事を「あの人が愛してるのは昔付き合ってた人」と他の人に話されて皆がそれを信じてしまったらどう思うか考えてみれば分かると思う。
研究書だろうとブログだろうと当人の本当の気持ちは知りようがないのだから何を書こうがそれは想像上のものに過ぎない。
書く人間はそれをしっかり自覚すべきだけど「自分は絶対正しい」と思い込んで断定調で書いてしまう事がよくある。
だから読む側がそれを頭の隅にでも覚えておいて下さい。
もし今の自分の事を誰かが書いた時、今の自分が考えてもいない事を事実として書かれたら?って考えてみて欲しいんです。
そしてそれが事実として周知されてしまったら?
これはAやDに限らず歴史上の人物で日記に赤裸々な感情を書き残さなかった全ての人について言える事です。
なので推しが貶されたりしていつも悔しい思いをしてる人は
これはフィクション! 著者の創作!
と言う事を思いだしてください。
そして、これを何度も胸の中で繰り返しながら自分がこうであって欲しいと願う人物像を思い描きましょう。
それが貴方にとっての真実です(史実かどうかはともかく)。
義経や信長や幸村に生存説が出来たのはそう言う事なんだと思います。
タイムマシンでも出来ない限り証明出来ないんだから幸村が密かに生き延びてた可能性は0じゃない。
そう言う事です。
ちなみに歴史小説は元々フィクションとして書かれてて読む側も創作として読むので事実じゃない事を書いてもいいんです。
まぁ、書かれた人間が生きていてそれを読んだらムカつくかもしれませんが、そこは創作なんで許してもらうしかない。
ということで頭に来たのでここに吐き出しました。
私怨でサーセン。
あと、大丈夫だとは思いますが学校の授業で定説を話した先生に反論する時はここをソースとして持ち出さないで下さいね。
私は素人ですし前述のように一次資料は『御堂関白記』しか読んでないので、ここに書いてあるのはあくまで私の個人的な考えです。
追記:ちょっとムカつくブログを読んでしまった。
誰かが書いた著作物の内容の概要らしいけど、Dの最初の子供が生まれたのは9年後って書いてあるのにEが身ごもったのも9年後って部分は書いてない。
それにEを一途に思ってたって言うけど、JがE以外の女性を入内させなかったから他に選択肢がなかった事も書いてない。
あとDが出産した時、帰りが待ちきれずにわざわざ道長の邸まで会いに行った事も書いてない。
そもそも亡くなったEを思い続けてたっていういけど、Eの死後2年も経たないうちに別の女性が身ごもってる事はどうなるの?
思い続けてたならなんでEが亡くなった直後に他の女との間に子供作るの?
妹だからって言ってる人いるけど妹だろうと本人じゃないでしょ。
その他、上に書いたようにDが中宮になった経緯やJが前例作ったって事なんかも書いてない。
>DはEが発揮したような求心力を女房達に対して持つ事が出来なかった
Dの呼んだ和歌はいくつも残ってて女房達が出仕をやめた後も長い間親しく和歌のやり取りをしているけど、その部分は無視か知らないかのどっちかみたいで書いてない。
そもそもDの歌がいくつも『勅撰和歌集』に残ってるのはQ達を始めとした女房達の英才教育のたまものじゃないの?
求心力がなかったら英才教育も受けられないでしょ。
Dが愛されてなかった根拠は「愛されていると書かれたものがない」って事になってるけど『御堂関白記』(多分『Q日記』も)に待ちきれなくて会いに来た事が書かれてる。
これはFのような物語(創作)ではなく日記(一次資料)。
ここまで見ただけでもD側の資料を一切調べず(もしくは都合の悪いモノは見ない振りをして)元にしたのは物語(フィクション)だけ。
E贔屓のバイアス掛かりまくってる。
しかもEの愛されすぎた后って部分がPの桐壺に似てるって桐壺は光源氏の母親。
母を慕ってたから母に似ている藤壺と密通して、更に藤壺に似ているという理由で紫の上を妻にした。
Aを光源氏に例えた場合、Eと桐壺の関係は母親とマザコン息子でどう転んでも夫婦にはならない。
母親を慕っていたとしても光源氏が情を通じたのは桐壺やその姪の紫の上。
ここにEが入り込む余地はない。
しかも光源氏は結婚相手の葵の上(四歳年上)と馴染めなかったって、Eも姉さん女房なんですがそれは…。
第一、上に書いたようにDとEが同時に内裏にいたのは2年程。
出典はFやPがほとんどだしホント勘弁して欲しい。
このように通説にはものすごいバイアス掛かってます。
なので、推しの不遇を見たら、
これはフィクション! 著者の創作!
と言う事を思い出しましょう。
後世の定説はほぼ↑これですから。
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